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日本の平和はだれが守り築くのか [日本憲法]

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「日本の平和はだれが守り築くのか」を考える時代に来ています。

日本国は、この問題で「戦争反対」を叫び、現憲法の固辞を主張する国民が約半数います。
これは、理想派と現実派の対立軸があるからですが、その文言の前に、人間は元来、戦争など欲するはずがないのです。

この前提の故に、自国民の世界平和に貢献する自然人としての人間的自覚が必要ではないでしょうか。

今、世界の文明国(独立国)は、自国を愛し守るのはその国民の常識です。

世界の国家は自国を愛し守る意識は当たり前のことです。
それは、家族とルーツを愛するからです。

故に独立の文明国は、自立して戦う意思がありますが、従属国又は奴隷的国民は、自ら戦う目的も意思も持ちません。自国を愛さない国民は、当然に、自国を守る意思、精神が生じないのです。

自分の家族も友人も愛さない人は、自分の家族や友人のために戦う必要のない理です。

この様な当たり前の考え方に、日本国の平和の意識はどちらなのでしょうか。

敗戦後、マッカーサー司令官を長とする占領司令部の日本国民の精神的強さの恐れから、国民の精神基軸の憲法を変え、精神や宗教などの神的対象を消し、財閥の財資力の解体、旧教育内容と体制の解体、共産勢力の取締り、報道の制限など、そして、戦後の民主主義教育の普及として、社会主義思想の日教組を利用した教育体制に組み替えて、日本国民から、その自信と誇りを徹底して消滅させたのです。

その事なかり理主義の平面的平和教育からの意識が、現在の日本国民の平和概念となって今なお続いています。
この様に、国体としての精神的芯を失くした国はその拠所もない、真にひ弱で恐ろしいことです。
人間に平和理念や意識のない躁鬱状態の「平和ボケ」のようです。

今日本は、占領統治からの米国の力の傘の下での従属的国家であることで、仮の平和にある状態ですが、自国民の意思による平和の真の保持力は、国際的には皆無と言えます。

それは、米国が日本の利がなくなり手を引くと、張子の虎の日本の軍事力が顕在化し、他国の日本への軍事的、政治的圧力の増加が明確に見えてくることでしょう。

戦後、朝鮮戦争で米政府のご都合主義で、日本米軍の戦略が変わり、日本は後方部隊としての自衛隊が誕生しました。

戦後の貧しい時代、警察予備軍や自衛隊の大半は、貧乏人の就職を支えてきました。
そして軍人の教育は、憲法で行使されますので、現在は、装備力は世界有数の体力は持ちますが、戦う精神力の低い「張り子の虎」の状態なのです。

この様な日本の、他国の軍事など、力の圧力は、誰が守るのでしょうか。
この単純質問に、現在の日本国には国の答えがありません。

即ち、日本国自身が軍国化を恐れて誇りも自信を無くし、真の平和創造への国民の常識と知恵が損なっているからです。

戦争の抑止と平和の保持には、口先の理論を超える、自国を心より愛する国民の、平和に対処するぶれない覚悟と自衛心が芯となる、「平和精神の表と裏」の両面の力を磨きあげる必要があるのです。

「平和憲法」は、日本国民の恒久の平和に寄与する、国際的に誇り高い理念と責任が芯となる憲法であるべきと願う者です。
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