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初代南極観測船「宗谷は奇跡の強運船 [南極大陸]

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東京お台場にある「船の科学館」は、“船”の本館が2月から解体され、「別館展示場」と「屋外展示資料」の公開は1月28日で終了となります。が、「初代南極観測船“宗谷”」の展示は継続されます。

この展示の船「宗谷」は、今から80年前、第二次世界大戦中の1944(昭和19)年に、旧日本海軍の拠点だった太平洋のトラック諸島の測量任務に加え、輸送任務も担う特務艦として運用され、本来補給予定だったブラウン島に物資が不足しているため、トラック諸島へ進路を変えた関係で、2月17日と18日の2日間、米海軍空母艦載機によるトラック島の大規模な空襲に遭遇し、泊地のあった夏島周辺で、自ら砲台となる形で搭載された対空兵装(連装高角砲や対空噴進弾幕)を使い、他の艦船を援護する対空戦闘の特務艦の役割を担います。

しかし、空襲初日に回避行動をとった際に座礁して身動きが取れなくなり、絶体絶命の状況になりましたが、奇跡にも離礁復活した2日目は、米機による機銃掃射により高射砲手の全員が死傷し、さらに副長が戦死、艦長も負傷し、ついに総員退艦の命令が下ります。

この空襲と同月23日に行われたマリアナ諸島空襲により、海軍は艦艇及び基地配備の航空機の多くを失い日本の敗色はいよいよ濃厚となりました。

トラック島の激しい空襲でほぼ撃沈状態だった宗谷「総員退艦」の命が下りましたが、奇跡的に生き延びて、戦後には、初代南極観測船として有名となります。

大戦中は、特殊船となって砕氷能力を活かす機会には恵まれずでした。

即ち、その時点の座礁状況による判断では、艦としては使い物にならないと判断され退艦したわけです。が空襲後、「宗谷」は運命のいたずらか“自然に”離礁して浮いており、艦を確認しに戻った乗組員を涙させたそうです。

実は「宗谷」は、この空襲以前にも、1942(昭和17)年の1月に同じトラック諸島で空襲を受けましたが無傷でした。さらに、1943(昭和18)年1月28日には、南太平洋のブカ島(現パプアニユーギニア)クイーンカロライン沖で敵潜水艦の魚雷が船体に突き刺ささりましたが、幸い不発で損傷は軽微で済んだなど、かなりの強運ぶりを発揮していました。

トラック島空襲から生還した戦争末期には、測量機材を全部外し、横須賀~室蘭間で石炭輸送に従事しました。この輸送は航路上で、度重なる空襲や潜水艦の魚雷攻撃を受けていたほか、敷設された機雷のなかを突っ切る輸送船でしたが、これらから「特攻輸送」と呼ばれていたそうです。

この状況下での「宗谷」は、ここでも奇跡的なことに、目立った損傷を受けることなく任務を続け、逆に敵潜水艦を爆雷で反撃して追い払い、撃沈された僚船の乗組員救出なども行ったそうです。

こうした戦時中のその艦歴において、おそらく最大のピンチだったのがトラック島の空襲だったと言えますが、前記の数々の強運と幸運エピソードが評価され、「宗谷」は戦後に南極観測船として改造されたのです。

「宗谷」が展示されている船の科学館は2024年1月28日をもって展示公開を終了したが、「宗谷」の展示公開と教育普及活動を中心とした各種博物館活動は引き続き継続されています。


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