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「死生観」と「仏教の輪廻観」

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生命のあるものは、必ず死を迎えます。これは、例外のない生命(自然界)の真実です。

佐伯 啓思(さえきけいし)京都大学名誉教授の「死と生」(新潮新書)の記事を読み、改めてその「死生観」を紹介します。

氏はこの中で、「これほど人間の根源的な事実はなく、誰にもまったく平等にやってくる。そもそも死を厭(いと)い、面倒なものには蓋(ふた)をしてきた今日の社会の風潮の方が奇妙なのではなかろうか。

人々の活動の自由をできる限り拡大し、富を無限に増大させるという、自由と成長を目指した近代社会は、確かに、死を表立って扱わない。死を論じるよりも成長戦略を論じる方がはるかに意義深く見える。しかし、そうだろうか。かつてないほどの自由が実現され、経済がこれほどまでの物的な富を生み出し、しかも、誰もが大災害でいきなり死に直面させられる今日の社会では、成長戦略よりも「死の考察」の方が、実は必要なのではなかろうか。」

そして、人の 「死生観」は、ひろい意味での宗教意識と深くつながっている。なぜなら、多くの宗教意識は、この現実を超越した聖なるものを想定し、その聖なるものによって人々を結びつけ、また、この聖性によって、人々の現実の生に意味を与えるものだからである。

そして、たいていの社会には、漠然としていても、何らかの宗教意識がある。イスラムはかなり明白であるが、米国はプロテスタント中心のいわば宗教大国であり、西欧では、かなり薄められたとはいえ、西欧文化のいわば母型としてキリスト教があるし、そもそも無宗教とは、多くの場合、意思的な無神論を意味する。それらが、ゆるやかに西欧人の死生観を形づくっている。

では、今日の日本における宗教意識とは何なのだろうか。NHK放送文化研究所の調査(08年)によると、「死後の世界を信じる」という人の割合は44%もあり、特に若者層では多い。しかも確実にこの割合は増えている。「祖先の霊的な力を信じる」人は47%ほどもいる。だがそれでは、このうちのどれくらいの人が、神道であれ、仏教であれ、その教義や教説を知っているのだろうか。おそらくは、その内容はさして知らないが、何となく宗教への関心がある、ということであろう。

明治の近代日本では、神道の国家化と反比例して仏教は排斥された。そして、戦後になると、すべて宗教の立場は著しく低落した。宗教は、近代社会の合理主義や科学主義、自由主義や民主主義とは正面から対立するとみなされた。そして、近代以前に人々が自然にもっていた死生観も失われていった。

仏教の教えの根底には、現世の欲望や我執を否定し、無我や無私へ向かい解脱(さとり)を願うという志向がある。さとりを開くことによって生への執着や死の恐怖を克服しようとするところがある。これは、西洋のような絶対神をもってきて、神との契約の絶対性や神の教えの道徳的絶対性を説くやり方とはかなり異なっている。西洋では人は神に従属している。しかし、日本の宗教意識においては絶対的な神は存在しない。むしろ、清明心であれ、静寂であれ、無常観であれ、「無」へ向かう性向が見られることは間違いないであろう。

 私には、もしもこのような宗教意識が今日のわれわれにある程度共有されておれば、これほど騒々しく他人の非を責めたて、SNSで人を誹謗(ひぼう)し、競争と成長で利益をえることばかりに関心を向ける社会にはならなかったのではないかと思われる。今年から学校では道徳が教科化されたのなら、ぜひとも、日本人の宗教意識や世界の宗教の簡単な解説ぐらいはすべきではなかろうか。「死の考察」を述べています。

日本人の古来よりの信仰は、自然崇拝の神道と超自然崇拝(大宇宙の真理)の仏教が融合合体した「神仏習合」の信仰形式が踏襲されていましたが、江戸時代から明治時代にかけて、天皇と神道を中心とした国政が布かれ、更に戦後は、アメリカの徹底した政教分離で、日本の精神文化が壊滅されて、現代日本の国民は、信仰心が消滅された無宗教時代に置かれています。

人の「生死」は普遍の真理であり、大自然の生死の輪廻も普遍の真理であり、ここでご自分の「死生観」を見つめてみては如何でしょうか。


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