世界標準の「リベラリズム」と日本の「リベラリズム」(2) [リベラリズム]
井上氏は、「戦争の正義」についての考え方に、(1)積極的正戦論(自分の信じる宗教
や道徳のために武力を使って構わない)、(2)無差別戦争観(国益追求の手段として、
外交の延長として戦争を行なってもいい)、(3)絶対平和主義(侵略や専制は不正だが、
抵抗の手段はデモ、ゼネストなど非暴力的抵抗でなくてはならない――暴力に対して
暴力で闘うのは侵略者・専制的支配者と同じ不正を犯すことだ)、(4)消極的正戦論
(自衛のために不可欠である場合にのみ戦争に訴える)の4つがあるとする。
憲法第9条2項には、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを
保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。
憲法学者のなかには、「専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は9条に違反しない」と
主張する人達(長谷部恭男氏など)もいるが、井上氏はこれを「修正主義的護憲派」
と呼んで否定する。なぜなら9条解釈としては、文理の制約上、絶対平和主義を唱え
ているとしか解釈しようがないからだ。
9条2項については、「前項の目的(国際紛争を解決する手段としての戦争放棄)
を達するため」が挿入されたことで自衛戦力を合憲にできるという解釈もあるが、
これは「およそ通常の日本語感覚では理解不能」だ。更に、こうした「密教的解釈」
を許すことは「秘密法の禁止」という法の大原則に反する。
そもそも1946年の帝国議会憲法改正委員会で、共産党の野坂参三が「自衛のため
の戦力まで放棄するのはおかしい」と述べたのに対し、吉田茂首相は「これは自衛の
ための戦力も放棄したという趣旨だ」とはっきり答弁している。
や道徳のために武力を使って構わない)、(2)無差別戦争観(国益追求の手段として、
外交の延長として戦争を行なってもいい)、(3)絶対平和主義(侵略や専制は不正だが、
抵抗の手段はデモ、ゼネストなど非暴力的抵抗でなくてはならない――暴力に対して
暴力で闘うのは侵略者・専制的支配者と同じ不正を犯すことだ)、(4)消極的正戦論
(自衛のために不可欠である場合にのみ戦争に訴える)の4つがあるとする。
憲法第9条2項には、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを
保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。
憲法学者のなかには、「専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は9条に違反しない」と
主張する人達(長谷部恭男氏など)もいるが、井上氏はこれを「修正主義的護憲派」
と呼んで否定する。なぜなら9条解釈としては、文理の制約上、絶対平和主義を唱え
ているとしか解釈しようがないからだ。
9条2項については、「前項の目的(国際紛争を解決する手段としての戦争放棄)
を達するため」が挿入されたことで自衛戦力を合憲にできるという解釈もあるが、
これは「およそ通常の日本語感覚では理解不能」だ。更に、こうした「密教的解釈」
を許すことは「秘密法の禁止」という法の大原則に反する。
そもそも1946年の帝国議会憲法改正委員会で、共産党の野坂参三が「自衛のため
の戦力まで放棄するのはおかしい」と述べたのに対し、吉田茂首相は「これは自衛の
ための戦力も放棄したという趣旨だ」とはっきり答弁している。
世界標準の「リベラリズム」と日本の「リベラリズム」(1) [リベラリズム]
今、日本の政府国民の重大課題として、改憲論や護憲論、各論的には、集団的自衛権や
慰安婦問題などの議論があります。
これらの議論は、互いにその論点を異にして争っていますが、国民がそれらを正しく
判断するための、その支柱となる考え方が無ければ、自前の論議を繰り返すだけで、
その融合は困難となります。
この考え方に、リベラリズムの「正義の思想」を支柱として、考えた時、その解決が
見えてきます。
故に、東京大学大学院法学政治学研究科教授で法哲学の第一人者の井上達夫氏の言を
ご紹介します。
氏は、世界標準の「リベラリズム」に対して、日本の「リベラリズム」は異なると言います。
本来の「リベラリズム」の歴史的根源は、「啓蒙」と「寛容」であり、この両輪で
「共存」を学びながら、「正義の思想」を磨くことが、近代主義の思想であると言います。
では、「正義の基準」とは何でしょうか。
その国際的基準は、「反転可能性」、「ただ乗り禁止」「二重基準の禁止」です。
「反転可能性」とは、自分が受け入れられないことを相手に課してはならないこと。
自分と相手の立場を反転させて、それでも許容できることだけを相手に要求できること。
「ただ乗り(フリーライド)の禁止」は、コストを払わずに利益だけを得るのは不正なこと。
「二重基準の禁止」は、ダブルスタンダードを使ったご都合主義を許さないこと。
この三側面から、事の正義を考えることを学ぶべきです。
慰安婦問題などの議論があります。
これらの議論は、互いにその論点を異にして争っていますが、国民がそれらを正しく
判断するための、その支柱となる考え方が無ければ、自前の論議を繰り返すだけで、
その融合は困難となります。
この考え方に、リベラリズムの「正義の思想」を支柱として、考えた時、その解決が
見えてきます。
故に、東京大学大学院法学政治学研究科教授で法哲学の第一人者の井上達夫氏の言を
ご紹介します。
氏は、世界標準の「リベラリズム」に対して、日本の「リベラリズム」は異なると言います。
本来の「リベラリズム」の歴史的根源は、「啓蒙」と「寛容」であり、この両輪で
「共存」を学びながら、「正義の思想」を磨くことが、近代主義の思想であると言います。
では、「正義の基準」とは何でしょうか。
その国際的基準は、「反転可能性」、「ただ乗り禁止」「二重基準の禁止」です。
「反転可能性」とは、自分が受け入れられないことを相手に課してはならないこと。
自分と相手の立場を反転させて、それでも許容できることだけを相手に要求できること。
「ただ乗り(フリーライド)の禁止」は、コストを払わずに利益だけを得るのは不正なこと。
「二重基準の禁止」は、ダブルスタンダードを使ったご都合主義を許さないこと。
この三側面から、事の正義を考えることを学ぶべきです。