台湾の日本の統治と植民地支配に学ぶ [武士道]
台湾は、日清(現中国)戦争後、下関条約で日本に永久割譲された日本の領土でした。
敗戦後の日本は、蒋介石政権の崩壊後の台湾を中国領土と認めたことで、台湾は隣国でありながら、過去に日本が懸命に築いた同胞の台湾の歴史的親密さが薄らいでいます。
ここで、台湾出身の評論家で黄文雄氏の著書「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』から、その氏の歴史的真実を通しての、日本人に対する訓示に学びたいと思います。
以下著書の細かい根拠を除いたほんの一部となりますが、氏の日本に対する心をご紹介します。
「・・・、日本人のみが今日の台湾をつくれたのだろうか。日本人以外には、近代台湾をつくることができなかったのだろうか。」
答えは「イエス」である。近代台湾の文明開化には、日本精神が必要不可欠な要素だったのである。そのことについても、後々触れるつもりである。
では、日本精神とはいったいどんなものなのだろうか。それは、新渡戸稲造の言う「武士道」だけではない。それは、江戸時代までに熟成した日本文化であり、開国維新後の明治人によって、いっそう開花された精神である。それが文明開化の波に乗り、台湾という南の島でも開花したのだった。
未知への好奇心、異域探険への冒険心、厳密にして徹底している科学探究心、土地を愛する心。日本精神には、これらすべてが含まれている。そして、その極致として、護国の神となって土地に骨を埋めることを台湾人に教えたのが日本人であった。
戦前の日本人、今では「植民地支配者」や「侵略者」と見なされている日本人は、じつに立派であった。ことに明治人は新生日本、国民国家の国造りを目指して「お国のため」一筋、進取の精神に富み、明治人の気骨を持っていた。
しかし、大正デモクラシー以後の大正、昭和、平成時代になると、日本人は変わってきた。だんだんと勇気を失い、臆病になり、無責任になった。そして戦後の日本人は、とうとういじめるかいじめられるか、どちらかの人間のみに堕してしまう。そのため、台湾人は「日本植民地時代を美化している」といわれるほど戦前の日本人を敬愛しているが、戦後の日本人には台湾で尊敬される人はあまりいない。戦後の日本人には戦前の日本人を批判する資格はないのである。
歪められ、貶められ続けてきた日本の過去を修正し、先人がいかにすばらしい歴史を築いてきたかを認識することが、誇りと気概に満ちた日本人となる第一歩である。台湾の近代史、日本と台湾のつながりを知ることが、その一助となると私は確信している。
この下りは、現代の日本人が戦後に自分を見失った、日本人の誇りと健全な精神を呼び覚ます「訓示」と考えます。
敗戦後の日本は、蒋介石政権の崩壊後の台湾を中国領土と認めたことで、台湾は隣国でありながら、過去に日本が懸命に築いた同胞の台湾の歴史的親密さが薄らいでいます。
ここで、台湾出身の評論家で黄文雄氏の著書「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』から、その氏の歴史的真実を通しての、日本人に対する訓示に学びたいと思います。
以下著書の細かい根拠を除いたほんの一部となりますが、氏の日本に対する心をご紹介します。
「・・・、日本人のみが今日の台湾をつくれたのだろうか。日本人以外には、近代台湾をつくることができなかったのだろうか。」
答えは「イエス」である。近代台湾の文明開化には、日本精神が必要不可欠な要素だったのである。そのことについても、後々触れるつもりである。
では、日本精神とはいったいどんなものなのだろうか。それは、新渡戸稲造の言う「武士道」だけではない。それは、江戸時代までに熟成した日本文化であり、開国維新後の明治人によって、いっそう開花された精神である。それが文明開化の波に乗り、台湾という南の島でも開花したのだった。
未知への好奇心、異域探険への冒険心、厳密にして徹底している科学探究心、土地を愛する心。日本精神には、これらすべてが含まれている。そして、その極致として、護国の神となって土地に骨を埋めることを台湾人に教えたのが日本人であった。
戦前の日本人、今では「植民地支配者」や「侵略者」と見なされている日本人は、じつに立派であった。ことに明治人は新生日本、国民国家の国造りを目指して「お国のため」一筋、進取の精神に富み、明治人の気骨を持っていた。
しかし、大正デモクラシー以後の大正、昭和、平成時代になると、日本人は変わってきた。だんだんと勇気を失い、臆病になり、無責任になった。そして戦後の日本人は、とうとういじめるかいじめられるか、どちらかの人間のみに堕してしまう。そのため、台湾人は「日本植民地時代を美化している」といわれるほど戦前の日本人を敬愛しているが、戦後の日本人には台湾で尊敬される人はあまりいない。戦後の日本人には戦前の日本人を批判する資格はないのである。
歪められ、貶められ続けてきた日本の過去を修正し、先人がいかにすばらしい歴史を築いてきたかを認識することが、誇りと気概に満ちた日本人となる第一歩である。台湾の近代史、日本と台湾のつながりを知ることが、その一助となると私は確信している。
この下りは、現代の日本人が戦後に自分を見失った、日本人の誇りと健全な精神を呼び覚ます「訓示」と考えます。
日本の誇り 新渡戸稲造と「武士道」 [武士道]
人は心をその目指すものに昇華させるための道を「道」と名付けて精進します。
その「道」の昇華は、心の昇華でもありその極めに「美」を伴います。
日本の心には、万世一系の天皇を柱とする、「天道」と「人道」があり、その代表は
「武士道」で、古武道、剣道、華道、茶道、書道、柔道、など多くの道が見られます。
さて、「武士道」の著者、新渡戸稲造は、日本の教育、思想、農学の学者で、国連事務
次長、東京女子大初代学長であり、日本銀行の五千円札にその肖像がある人物です。
「武士道」は元来封建時代の、武士が戦いに勝つための侍心得(戦術的心得)でしたが、
これが武士支配階級の武道訓、戦陣訓から発展進化して、道義道徳規範を含む家訓と
もなり、更に広く、公家、武士、庶民の階層社会にありながらも、むしろ、社会機能を束ね
る士農工商(四民)の、管史、農民、職人、商人、各層のリーダーの行動規範として受け
入れられて、その社会秩序が定まり、これが明治時代になると、新渡戸稲造の道義や
倫理の道徳規範の体系化された思想となって、一般庶民を取り込み、この著書名が
「武士道」となって、日本を始め世界の知識層の道徳規範書として共鳴を受けて広がり
ました。
長岡藩城代家老を務めてきた稲垣家の六女、杉本鉞子(えつこ 明治5年生まれ)の
著作「武士の娘」は、鉞子自身の、日米の異なる生活や思想文化と日本の武家の女性
としての誇りの在り様に、悶えながらも強く清く一途に生きた「武士道の女性の品格」を
綴った物語でした。
この作品は、当時(明治時代)の日本と米国の狭間を繋ぐ、人としての「品格の香り」と
「不器用武士の娘の懸命な生き方と感性」が愛され、作品は欧米諸国に広まり、8万部
のベストセラーとなりました。
即ち、これら日本社会の歴史的生活の背景からの「武士道」は、日本国の、太古神話の
国造りから、天皇一系の「八紘一宇」統治を基に、「和」を掲げ、如何に庶民を幸せにする
かの国造りを柱としての統治がその源流にあり、そして、庶民はその精神の根底に、
「天道と人道」に「感謝と報恩」が加わり、「大きな和」『大和』戦いは「大義」を重んじた、
日本独特の清く、美しく、誇りと香りの高い、「庶民の行動規範」であると言えます。
その「道」の昇華は、心の昇華でもありその極めに「美」を伴います。
日本の心には、万世一系の天皇を柱とする、「天道」と「人道」があり、その代表は
「武士道」で、古武道、剣道、華道、茶道、書道、柔道、など多くの道が見られます。
さて、「武士道」の著者、新渡戸稲造は、日本の教育、思想、農学の学者で、国連事務
次長、東京女子大初代学長であり、日本銀行の五千円札にその肖像がある人物です。
「武士道」は元来封建時代の、武士が戦いに勝つための侍心得(戦術的心得)でしたが、
これが武士支配階級の武道訓、戦陣訓から発展進化して、道義道徳規範を含む家訓と
もなり、更に広く、公家、武士、庶民の階層社会にありながらも、むしろ、社会機能を束ね
る士農工商(四民)の、管史、農民、職人、商人、各層のリーダーの行動規範として受け
入れられて、その社会秩序が定まり、これが明治時代になると、新渡戸稲造の道義や
倫理の道徳規範の体系化された思想となって、一般庶民を取り込み、この著書名が
「武士道」となって、日本を始め世界の知識層の道徳規範書として共鳴を受けて広がり
ました。
長岡藩城代家老を務めてきた稲垣家の六女、杉本鉞子(えつこ 明治5年生まれ)の
著作「武士の娘」は、鉞子自身の、日米の異なる生活や思想文化と日本の武家の女性
としての誇りの在り様に、悶えながらも強く清く一途に生きた「武士道の女性の品格」を
綴った物語でした。
この作品は、当時(明治時代)の日本と米国の狭間を繋ぐ、人としての「品格の香り」と
「不器用武士の娘の懸命な生き方と感性」が愛され、作品は欧米諸国に広まり、8万部
のベストセラーとなりました。
即ち、これら日本社会の歴史的生活の背景からの「武士道」は、日本国の、太古神話の
国造りから、天皇一系の「八紘一宇」統治を基に、「和」を掲げ、如何に庶民を幸せにする
かの国造りを柱としての統治がその源流にあり、そして、庶民はその精神の根底に、
「天道と人道」に「感謝と報恩」が加わり、「大きな和」『大和』戦いは「大義」を重んじた、
日本独特の清く、美しく、誇りと香りの高い、「庶民の行動規範」であると言えます。