「原爆の日」「終戦記念日」を「世界平和の日」に [終戦記念日]
8月に入ると恒例の「原爆の日」や「終戦記念日」など、戦争の惨事を思い起こす
行事が広島や長崎で行われますが、この日は、「二度と戦争を起こしてはならない」
とする戦争犠牲者300万人と、その原爆被害者約20万人の声を繋いで行くものとなっ
ています。
日本国憲法はこの理念を謳ったもので、国民の「平和」への拠り所となってきましたが、
政府は理念だけでは、現実的な戦争や国際紛争を避ける事が出来ないとし、憲法改正や、
集団的自衛権容認の政策を打ち出し、「戦争をしない」から「戦争を回避する」方策に
変更しました。
「戦争を避ける」政策には、万一には「戦争をする」が含まれており、この懸念が国民を
二分する論議となっています。
この論議は、「戦争をしない」は一貫した強い信念が必要であり、「戦争を回避する」は、
信念を曲げた、戦争への道を開く防衛手段で、この間には、今後の外交政策にも可也の
差異が生じます。
即ち、日本は戦争をしない国から、他の国同様に戦争もする国に変化したことです。
戦争を起こすには理屈も手段も不必要で、その正邪もありません。
戦争の正義は勝つことしかなく、それしか国の生存もありません。
一度、戦争や紛争が勃発すれば、国民の命も生活も容赦なく犠牲となります。
恒例の「原爆の日」や「終戦記念日」を、慰霊と記念行事の枠を外して、
世界の諸国が、世界の悲惨な戦争の思いを共有して、全世界が統一して「世界平和」
を祈念する、「世界共通の平和行事日」としたいものです。
行事が広島や長崎で行われますが、この日は、「二度と戦争を起こしてはならない」
とする戦争犠牲者300万人と、その原爆被害者約20万人の声を繋いで行くものとなっ
ています。
日本国憲法はこの理念を謳ったもので、国民の「平和」への拠り所となってきましたが、
政府は理念だけでは、現実的な戦争や国際紛争を避ける事が出来ないとし、憲法改正や、
集団的自衛権容認の政策を打ち出し、「戦争をしない」から「戦争を回避する」方策に
変更しました。
「戦争を避ける」政策には、万一には「戦争をする」が含まれており、この懸念が国民を
二分する論議となっています。
この論議は、「戦争をしない」は一貫した強い信念が必要であり、「戦争を回避する」は、
信念を曲げた、戦争への道を開く防衛手段で、この間には、今後の外交政策にも可也の
差異が生じます。
即ち、日本は戦争をしない国から、他の国同様に戦争もする国に変化したことです。
戦争を起こすには理屈も手段も不必要で、その正邪もありません。
戦争の正義は勝つことしかなく、それしか国の生存もありません。
一度、戦争や紛争が勃発すれば、国民の命も生活も容赦なく犠牲となります。
恒例の「原爆の日」や「終戦記念日」を、慰霊と記念行事の枠を外して、
世界の諸国が、世界の悲惨な戦争の思いを共有して、全世界が統一して「世界平和」
を祈念する、「世界共通の平和行事日」としたいものです。
104歳の帰らぬ若き夫を待った妻と特攻死を選択した妻 [終戦記念日]
戦中、旧満州国や中国に軍属として現地に渡った日本人は、何十万人にもなりますが、
その中の1人の、宮城県出身の小野周之助さんは、旧満州(現在の中国) 鞍山で日本人
学校の校長を務めていました。
終戦で邦人は現地の暴徒に暴行や略奪、子女が襲われる事件が多発しましたが、軍の
多くは市民を見捨てて、戦線を縮小し南東部の都市に、及び帰還の途に就き、準備の
無い多くの市民は、この恐怖と混乱の中、馬や車も、食料もない状態で、着のみ着た
まま自力で逃走するしかなかったわけで、これら日本人の未帰還などの行方不明者は
膨大な数となったのです。
小野周之助さんもその一人でしたが、共に35歳で、現地で生き別れてをしてから、
夫の帰りを待ち続けた妻の千鶴(ちづ)さんは、国の「戦時死亡宣告」と「遺族」届を
拒否して待ち続け、今年2月に104歳でお亡くなりになりました。
そして、千鶴さんは、自分の死後に一緒に「死亡宣告」手続きをするようにと遺言を
残していたと言います。
丁度前日の16日、NHKの「妻と飛んだ特攻兵」と言う、旧満州の実話の番組があり、
終戦後、日ソ講和条約を無視したソ連兵が、旧満州に攻め入り、無差別の攻撃を
市民に浴びせ多数の死傷者を出す中で、現地から日本軍の撤退命令の出た後、陸軍は
撤退したが、弾丸も尽きた11機の日本空軍部隊が、日本市民の帰国を1人でも助ける
ための逃走時間を稼ぐために、数十両の侵略戦車部隊に特攻する話ですが、この軍人
としての誇りと責任感、そして慈愛と、加えて、将校の軍属の妻は、共に市民を守る
のが当然とし、又、死ぬのは夫と一緒にと決め、共に軍規を破り、自爆攻撃に加わった、
夫々2人の妻の実話に、人の生き方の美しさを見せ付けられました。
これらの話は、今、戦争と平和を考えるに日本に、夫々人として、人間としての本質
であり、事の認識の責任と、夫々が決定する義務と、そして行動に向かう信念が、
その「人の命」を、意義あるものにすることの教訓でした。
その中の1人の、宮城県出身の小野周之助さんは、旧満州(現在の中国) 鞍山で日本人
学校の校長を務めていました。
終戦で邦人は現地の暴徒に暴行や略奪、子女が襲われる事件が多発しましたが、軍の
多くは市民を見捨てて、戦線を縮小し南東部の都市に、及び帰還の途に就き、準備の
無い多くの市民は、この恐怖と混乱の中、馬や車も、食料もない状態で、着のみ着た
まま自力で逃走するしかなかったわけで、これら日本人の未帰還などの行方不明者は
膨大な数となったのです。
小野周之助さんもその一人でしたが、共に35歳で、現地で生き別れてをしてから、
夫の帰りを待ち続けた妻の千鶴(ちづ)さんは、国の「戦時死亡宣告」と「遺族」届を
拒否して待ち続け、今年2月に104歳でお亡くなりになりました。
そして、千鶴さんは、自分の死後に一緒に「死亡宣告」手続きをするようにと遺言を
残していたと言います。
丁度前日の16日、NHKの「妻と飛んだ特攻兵」と言う、旧満州の実話の番組があり、
終戦後、日ソ講和条約を無視したソ連兵が、旧満州に攻め入り、無差別の攻撃を
市民に浴びせ多数の死傷者を出す中で、現地から日本軍の撤退命令の出た後、陸軍は
撤退したが、弾丸も尽きた11機の日本空軍部隊が、日本市民の帰国を1人でも助ける
ための逃走時間を稼ぐために、数十両の侵略戦車部隊に特攻する話ですが、この軍人
としての誇りと責任感、そして慈愛と、加えて、将校の軍属の妻は、共に市民を守る
のが当然とし、又、死ぬのは夫と一緒にと決め、共に軍規を破り、自爆攻撃に加わった、
夫々2人の妻の実話に、人の生き方の美しさを見せ付けられました。
これらの話は、今、戦争と平和を考えるに日本に、夫々人として、人間としての本質
であり、事の認識の責任と、夫々が決定する義務と、そして行動に向かう信念が、
その「人の命」を、意義あるものにすることの教訓でした。
戦死した千三の母高橋セキのことば [終戦記念日]
「兵隊にやりたくねえど思っても、天皇陛下の命令だればしかだねエス。
生まれた時がら、オレの子どもでながったのス」
戦死した千三の母が、村長に語ったと伝えられています。
高橋セキは北上市で、若くして夫と死別後、一人息子の千三を懸命に育て
上げたが、昭和42年4月に陸軍入隊後44年4月に南方のニューギニア戦線で、
その11月に戦死し、当時23歳であったと言います。
軍隊招集の「赤紙」が来た日に、「取り消せ。赤紙、取り消せ」戦争はおらが
起こしたんでねえぞ。起こした奴が鉄砲担げばいいんだ。と、村長に怒鳴り
こんでいました。
母、高橋セキは、日雇いをしながら10年かけてためたお金で、75歳で亡く
なる1年半前に、北上市の県道に「路傍の墓」を立てたと言います。
「オレ死んだらば、戦死した千三のごど、だれも忘れでしまうベェ。戦争の
ごども忘れでしまうべなス。オレ、忘れでほしぐねえのス」がその理由でした。
道端に立てられた墓には、ただ「南無阿弥陀仏」とだけ彫られていますが、
翌年から始めれられた、母子を悼む「千三忌」の読書会の仲間が、ここの家の
墓を超えて、「平和を願う人々の慰霊碑」として、今年で31回の墓参を済ま
せたと言います。
「平和を願う心」と「平和を守る心」を考えさせられる、母の戦場と悲願の言葉でした。
生まれた時がら、オレの子どもでながったのス」
戦死した千三の母が、村長に語ったと伝えられています。
高橋セキは北上市で、若くして夫と死別後、一人息子の千三を懸命に育て
上げたが、昭和42年4月に陸軍入隊後44年4月に南方のニューギニア戦線で、
その11月に戦死し、当時23歳であったと言います。
軍隊招集の「赤紙」が来た日に、「取り消せ。赤紙、取り消せ」戦争はおらが
起こしたんでねえぞ。起こした奴が鉄砲担げばいいんだ。と、村長に怒鳴り
こんでいました。
母、高橋セキは、日雇いをしながら10年かけてためたお金で、75歳で亡く
なる1年半前に、北上市の県道に「路傍の墓」を立てたと言います。
「オレ死んだらば、戦死した千三のごど、だれも忘れでしまうベェ。戦争の
ごども忘れでしまうべなス。オレ、忘れでほしぐねえのス」がその理由でした。
道端に立てられた墓には、ただ「南無阿弥陀仏」とだけ彫られていますが、
翌年から始めれられた、母子を悼む「千三忌」の読書会の仲間が、ここの家の
墓を超えて、「平和を願う人々の慰霊碑」として、今年で31回の墓参を済ま
せたと言います。
「平和を願う心」と「平和を守る心」を考えさせられる、母の戦場と悲願の言葉でした。